自転車は、今日も夢を見ていました。
四月のやわらかな風にさらさらと吹かれながら、力いっぱい両手をのばして待ち構えている草の子たちの間を、
自転車は、するする滑るようにして走ってゆきます。
空は、どうしてよいのかわからないくらい、まるで海の底から見上げている時のようでした。
自転車の上には、六歳くらいの男の子が乗っていました。
自転車は、この男の子が大好きでした。男の子と一緒なら、どんなところへでも走ってゆける…
そう思いながら、どこまでも、どこまでも、駆けてゆくのでした。
自転車は、ふと目を開けました。空には星が輝いていました。
夢なのか現実なのかまだよく分からない中、鼠色の電信柱にもたれながら、自転車はしこしほほ笑み、また目を閉じました。
少しして、何かがドンとぶつかりました。
自転車が目を開けると、そこには大きな黒い袋が一つあり、その中からクリスマスの曲が流れ始めました。
自転車は不思議に思い、大きな黒い袋にそっと顔を近づけました。
「‥いってぇ‥」
突然中から声がしました。自転車はびっくりして少しギシシッといいました。
「‥前見て歩いてよ」
「すみません‥」
自転車は咄嗟に謝りましたが、謝りながら、僕じゃないのに…と思いました。
「…聞き慣れねぇ声だなぁ‥君、誰?」
また中から声がしました。自転車は、少しおどおどしながら小さな声で、
「…自転車です」
そう答えました。
「ほう‥自転車さんかい‥自転車っていうと、風の中をビュビューンと行っちまう、あれだろ?ほほぅ‥」
声は、黒い袋の中で暫らくの間、フムフムフムフム言っていました。
今度は自転車が訊ねました。
「あなたは?」
「俺かい?俺はオルゴールさ」
大きな黒い袋が、プーっと少し膨らんだような気がしました。
「オルゴールっていっても、ネジを回す…あれと勘違いしてもらっちゃあ困るぜ。
俺は、最新式オルゴールさ。俺の体に触れるだけで、クリスマスソングが流れるんだ。さっき君も聴いたろ?あれさぁ」
大きな黒い袋がよりいっそうプーっと膨らみました。
「俺の体は水晶石みてぇでよ、その中を、俺のうたに合わせて真っ白い雪が、フワフワーっとゆっくり舞い上がるのさ。
そいつがキラキラキラキラ綺麗でよぅ‥。真っ白い雪が、いっぺんにみんなお星さまに変わっちまうさ。
そしてその下を、にゃあやわんこが楽しそうに走る…。君に見せてやれねぇのが残念よ‥。
クリスマスになると、もう注目の的。みんな俺に一目惚れよ…」
オルゴールは延々と語り続けました。
自転車は、あまりの長さに、頭の中が、むらさき色とだいだい色でぼわぁんとしていました。
そしてその中で、男の子と初めて出逢った8年前のクリスマスの日のことを、思い出していました。
「…でも、そいつも遠い昔のことさ‥。今じゃみんな、見向きもしねぇや…」
今まで楽しそうに話していたオルゴールの声が、急に寂しそうになり、大きな黒い袋は、小さくしゅんと凋みました。
自転車は慌ててオルゴールに聞きました。
「そういえば、どうしてこんな所にいるのですか?」
「‥どうやら引っ越しするみてぇでよ。荷物が片付くまでここで待ってんだ」
小さく凋んだ黒い袋は、桃色のまあるい月に照らされて、ラメラメと光っていました。
「君こそ何やってんの‥?」
オルゴールは、自分ばかり沢山しゃべってしまったというように、急に自転車に聞き返しました。
「‥僕はある人を探しているんです」
自転車は、月を見上げました。
「二年前にその人とはぐれて以来、ずっと探してるんです」
「二年も…そいつぁー大変だぁ‥自転車なら、ビューンと走ってすぐに見つけられそうなものなのに」
「ええ。昔は走りました。いろいろな人達を乗せながら、あちこち探し廻りました。
しかし、見つける事が出来ないまま、僕は走れなくなりました。
今じゃ、タイヤもベルもありません。‥でも、僕は待ちます。きっと、あの子が僕を見つけてくれる‥」
しばらくの間、二人は黙ったままでした。外灯の電球に、羽虫が一匹、カンとぶつかる音がしました。
「‥あと二ヵ月でクリスマスだねぇ‥」
突然、オルゴールが言いました。
「自分の好きな星一つに、願い事をするといいよ。きっとクリスマスに、サンタさんが叶えてくれるはずさ」
オルゴールに言われ、自転車は空を見上げました。
その瞬間、オレンジ色の星が、線香花火のように落ちました。
「よぉし!俺ももう一度頑張ってみるかな」
オルゴールは、大きな声で言いました。
「今年のクリスマスは、またうたを歌うよ。沢山歌って、みんなを驚かせてやるのさ。
…そうだ!君も今年のクリスマスは、俺の家に来るといいよ。その人も連れてさ。
そうしたら、俺が二人の為に、とっておきのクリスマスソングを歌ってやるよ!」
自転車は、とても嬉しくなりました。
なんだか今度こそ、本当に本当に、男の子に逢えるような気がしました。
「‥なんか、少し眠くなってきたな‥」
「‥そうだね‥」
いつの間にか、東の空は薄紫に変わり、桃色の大きな月は、西の空に小さく白くなっていました。
それからどのくらい経ってからでしょうか。大きな車の止まる音がしました。
あまりの眠さに、夢から抜けた卵色のもやもやの中を、ぐるぐるとさまよっていました。
突然、自転車は、自分の体がフワリと宙に浮かんだ気がしました。
次の瞬間、突き刺さるような太陽の破片と、真っ青な空に高く浮かぶオルゴールの入った黒い袋が、自転車の瞳の中に飛び込んできました。
そしてその後、痺れるような鈍い痛みが、自転車の体全体に走り、そのまま頭の中が、真っ暗になってゆきました。
気が付くと、自転車は、いつもの草原を走っていました。
吸い込まれそうな程真っ青な空の下、四月の風にさらさらと押されながら、自転車は男の子と一緒に、どこまでも、どこまでも走ってゆくのでした。
もうすぐ、螢蔓の花が咲きます。
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