山を去った大男の話

その日めずらしく雲の上のカンムリ山にも朝一番、玉虫色の風が吹きました。

昨夜の雨もすっかり上がり、木も花も石もまるで生まれたばかりのようにつやつやの露をつけ、赤や緑に光らせています。

こんな日がくると大男は、朝ごはんも昼ごはんも食べないで、手をはたはたさせながら空を見てぐるぐる回ったり、

地面に耳をくっつけてはぁはぁ笑ったり、ゴォーとやってくる風に目も鼻の穴も口もせいいっぱい大きく開けて、バァとやったりしました。

そんなことを一日くり返し、大男は、やがて腹の虫がぐぅと鳴ると立ち止まり、ポケットに残っていたシラカンバの皮を口に入れ、

にゃんにゃんにゃんと噛みながら、羊雲と一緒に、カンムリ山のてっぺんに向かって歩いてゆきました。

いつしか煉瓦色の日は沈み、真っ黒い夜がやってきました。しかし今夜は、青白い月の姿はどこにもありませんでした。

それでも檜たちは、いつものように東の空に向かって、いっせいにきちっと敬礼をしていました。

カンムリ山のてっぺんは、昔、まるで大きな隕石が突然落ちてきたかのようになっており、

真ん中の一番低い所には、とても美しい小さな沼ができていました。

大男は、その沼の畔で、静かに星を見ていました。

大男の隣には、銀色に光る小さな毛玉が一匹、カタカタと鳴る赤い実をおいしそうに食べながら座っていました。

大男は、ここから見る空が好きでした。

沼から見上げた空は、まるで、逆さに伏せた透明の黒いガラスボールのようで、やがてその空にぽつぽつ穴が開くように、

ひとつ、ふたつと星が現われると、沼はいっぺんに銀の星の海に変わりました。

大男はこの星の海が、ゆらゆら滲む星の涙に変わらないよう、風が吹きませんように‥風が吹きませんように‥と、域を堪えてそっと祈るのでした。

その時、空にひとすじ、ほうずき色した箒星が流れました。

その星は、長い長い尾を引きながら、みるみるうちに、大男の方に近づいてきました。

大男はびっくりして、その場に立ち上がりました。

その瞬間、ほうずき色に光った星が、大男の真上で大きくパン!と弾けました。

同時に空は、一面、金緑色に染まり、そこから何百、何千という小さな星屑が、夢のようにパラパラパラパラと、音もなく沼に降りしきりました。

それは、もう、本当の銀河でした。

大男は目をくるくるとまわしながら、暫らくその光景を見つめていました。

大男は手のひらを、そっと沼の水面においてみました。大男の手から、金色に輝く波の輪がいくつもいくつも拡がりました。

大男は嬉しくなり、体をふるふるさせながら、はぁはぁ笑いました。

そして、大切に大切に沼に入ると、今まで聴いた事も出した事もないような声を出しながら、銀河の海をどこまでも泳ぎ続けました。

どのくらいの時間が過ぎてからでしょうか。

大男は、突然銀河の海にポコッと顔を出しました。

ひんやりとした紫色の空気の中、大男は仰向けにぷかぷか浮かびながら、そのまま岸に向かって進みました。

そして岸についた時、大男は、自分が二度と家には戻れない事に気がつきました。

大男の足は、一本の大きな青い尾鰭に変わっていました。

しんしん光る金色の中、青い尾鰭を虹色にゆらしながら、大男は、暫らくの間、周りの木々を見つめていました。

突然横で、「ジャジャッ」という声がしました。

大男が振り向くと、そこには、赤い実をカタカタ鳴らしながら食べていた、あの銀色に光る小さな毛玉が、じっと大男を見ていました。

大男は、なんだか急に淋しくなりました。

大男は、毛玉にぐるりと背をむけて、静かに泳ぎはじめました。

そのとき、後ろで何かが淡く光ったような気がしました。

大男は泳ぐのを止め、そっと後ろを振り返りました。

するとそこには、小さなしっぽを桃色の尾鰭に変えた、銀色に光る小さな毛玉が、キリリとした顔つきで立っていました。

大男は、思わず顔をくしゃくしゃにしました。

銀色に光る小さな毛玉は、「ジャッ」と一声鳴いて、元気よく大男の胸に飛び込みました。

大男は、毛玉をやさしく抱きしめました。

そして周りの木々に背を向け、とぼんっと小さく音をたてて、金色に輝く銀河の中に静かに消えてゆきました。

いつしか空から星が消え、沼には薄紅色の空が映りました。

カンムリ山の木々たちも、白い息を吐きながら、今日も朝日が来るのを待っています。

 

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